21/4/2024 (Sun.)

じっくりとした睡眠を終え、午前中は軽く授業準備をした後、執筆ミーティング。今週はひとつオムニバス授業の担当回があり、大人数相手に講義をするので、そのためのスライドを作成した。ミーティングの方は、いつものように雑談と放言が中心になったが、ここ最近は毎週執筆目標を達成できているのでよしとする。

昼にツナと海苔のパスタをつくって食べた後、陽光が差してきたので気分が良くなってきて外出することにし、数週間ぶりに図書館に行った。今回は自習室での研究ではなく、書架を物色しながら読書のための本探しをした。結果、以下の5冊を借りて読む。バスで帰って家に着く直前には小雨が降り始め、良いタイミングで外出を終えることができた。

 

19世紀末のデカダン芸術はフランスを中心にヨーロッパで栄えたが、この文脈ではイギリスでも優れた書き手が何人か現れた。ダウスンもそのひとりで、彼の詩はいくつか読んできたが、岩波文庫から訳書が出ているのは知らなかった。書店では見かけたことがないと思う。翻訳はこの手のジャンルで有名な南條竹則によるもの。雅語、文語の訳も詩のトーンに合っている一方で、例えば次の、アーサー・シモンズへと贈られた「憂鬱(スプリーン)」の、素朴な言葉づかいの詩行も名訳だと思った。

悲しくはなかった。泣けもしなかった。
思い出はどれもみな、眠りについていた。

川が次第に白く不思議な様子に変わるのを、
夕暮れまで一日中、僕は見ていた。

夕暮れまで一日中、僕は見ていた。
雨粒が窓硝子を物憂げに打つのを。

悲しくはなかった。ただ、かつて欲しいと思った
すべてのものに飽きがきただけ。

彼女の唇、彼女の眼も、昼の間は
まるで影の影となり果てた。

彼女の心への憧れも、昼の間は
忘却と化していた。それが夕暮れになると、

僕は悲しく、泣きたくなり、
思い出はどれもみな、眠れなかった。(pp. 37–38)

 

先日投稿した論文で扱ったトピックのひとつの文脈にはジャポニスムがあった。そこでは特に英語の詩を論じていたので、俳句のような文学との関連が第一に問題になるのだが、その詩人は浮世絵にも関心を示していたし、実際にそれを自らの詩のモチーフにも取り込んでいた。そういうわけで、ここしばらくは頭のなかで19世紀末から20世紀初期にかけての西洋における日本的なものについて考える時間が長かった。論文は投稿もし終えたし、ひと段落したのだが、せっかくこうしてジャポニスムの問題系が頭のなかに浮遊しているあいだに、美術でどのような運動があったのか、それがどう論じられてきたのか、を少し知っておこうと本書を手に取ったのだった。

ぱらぱらとめくる感じ、特に第七章「空間のジャポニスム」、第八章「線のジャポニスム」が面白そうだ。特に第七章では「絵画の縁によるモチーフの唐突な切断」(p. 183)が話題になっていて、このあたりは当時の詩とも似たことが指摘できると思う。

 

同じく美術関連で、つい数ヶ月前に出版されていて読みたいと思っていた本。キリスト教美術についての類書はこれまでもいくつか読んできたが、見たことのない図版も多く、文章パートも語り口調で親しみやすい。大きな特徴は、中世ヨーロッパの作品がメインになっているところだろう。その理由は「はじめに」で次のように説明されている。

なぜ中世か、というと、キリスト教美術の黎明期、草創期であることから、表現がまだ定型化されておらず、聖書解釈にゆれや、まよい——いいかえれば、創造性、独自性がみられるからです。中世のキリスト教美術には、早春のようなあかるさ、のびやかさがあります。(pp. 1–2)

確かに、類書でよく取り上げられるルネサンス美術には、写実的で見事な美しさがある。しかし、そういった完全性の美をもたないからこそ、より自由で生き生きとした表現を中世美術には見て取れる、という、言われてみればそうだという発想で本書は編まれている。見た瞬間に笑ってしまうような、なんとも間の抜けたような絵も多い。適当にページを開いているだけで楽しめるし、解説の文章を読むとさらに面白くなる。

 

  • 中村達『私が諸島である——カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023)

こちらも数ヶ月前(といっても、もう半年近く前)に出版された一冊。ウェブ連載のときから話題になっていたが、これは本の形式で読みたいと思っていた。著者は西インド諸島大学モナキャンパスの英文学科(The Department of Literatures in English)に日本人として初めて在籍して2020年にPhDを取得している。その経歴がそのまま本書のテーマにつながっている。

その内容がきわめて刺激的であることはすでに多くの評者が称賛しているところだが、同時にその洗練された文章にも注目すべきだろう。専門書あるいは学術書の美点と、一般読者に開かれた教養書としての美点が、読みやすくかつ明晰な文によって併存している。カリブ海の思想や文学に関心を持つ人は確実にこの本によって増えるだろう。今期担当している授業でも学生たちに薦める予定。

 

  • 吉増剛造『静かな場所』(書肆山田、新版、2010)
静かな場所

静かな場所

  • 書肆山田
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この数年、著者の本を意識的に多く読んでいたが、これは未読だった。こういう本もしっかり蔵書のなかにあるあたり、近所の図書館に恵まれているなとしみじみ。アメリカでの生活が主に綴られたエッセイ集で、写真もついている。「栗鼠の家」と題されたものには、次のような思い出が記録されている。

歩いて行って樹の下に立ちたい。そんなことを考えていたのは、英語の栗鼠(Squirrel)の発音が、(r)と(l)が入りまじって難しいので、あの動物は私にとっては存在しないも同然だと冗談をいっていると、ある女性が彼らは一匹ずつ樹上に巣をつくり独立して生活しているという、その話におどろいて、栗鼠の家の下に立ちたくなっていた。(pp. 98, 100)

squirrelの発音がこんがらがってしまうのは、自分も小学生のときにそう思ったのをよく覚えている。ところで、このエッセイからずいぶん時間が経ってから書かれた長篇詩「怪物君」は「アリス、アイリス、赤馬、赤城/イシス、イシ、リス、石狩乃香」と始まるが、ここでの「リス」という言葉の陰には、詩人がアメリカで憧れた栗鼠の姿が隠れているのかもしれない、などと夢想した。