28/4/2024 (Sun.)

朝、もう一度発表原稿全体を読み直し、ハンドアウトと一緒に提出。その後、執筆ミーティングでこの一週間の進捗を報告。

初夏の陽気に誘われて、午後は外出をした。市役所で用事を済ませ、図書館に。図書館前の広場では市民祭りをやっていて、屋台やステージも出るなどなかなか賑わっていた。とはいえこちらの興味はフライドポテトよりも本にあるので、強い気持ちで喧騒のすぐそばで書架を練り歩いていた。それなりの広さがあるのだが、何度か訪れるうちに、徐々にどこにどんなものが置いてあるのかの地理感覚がわかってきた気がする。

今年度は4年の卒論ゼミで12人(!)持っており、色々なテーマを見なければいけないので、まずはその辺りを意識しながら各学生の関心に合いそうなものでどういう本が置いてあるのかを物色した。特にテーマを選んでいく段階では、実際に一緒に図書館を歩きながら指導できれば一番いいのだが、これだけの人数ではとてもそんなこともできないので、とりあえずいくつかチェックしながらヒントになりそうなものはメモしておいた。その後は自分のための読書用に本を選んだ。借りたのは以下。

「エクスタシーという言葉は今ではセックスと麻薬くらいにしか使わない」(217)という。そうなのだろうか、とそもそも思うのだが、それだけではない、というのが当然ながら本書のテーマになっている。タイトルに「神学」と冠しているものの、パラパラとめくる限り、美術への言及も多い。ベルニーニの有名な彫刻はもちろんのこと、あの教科書によく載っているザビエルの図像なども引用しつつ、キリスト教神秘主義の文脈でエクスタシーの歴史を概説している。研究面でも個人的には関心のあるトピックなので、その勉強も兼ねて。

  • 山本芳久『「愛」の思想史』(NHK出版、2022)

同じくキリスト教の哲学・神学のジャンルから。少し前にNHK出版からリリースされた「のきほん」シリーズは気になっていた。特に今年からは読書経験のあまりない学生も指導することになったので、こういうタイプの本も読んでおくと何かの役に立つかと思い、とりあえず自分にとって興味があるテーマかつこの種のトピックでは信頼できるアクィナス研究などで有名な著者のものを借りてみた。表紙もかわいくて良い。

  • 平尾昌宏『日本語からの哲学——なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』(晶文社、2022)

こちらも少し前に見かけて気になっていた。日本語にはいわゆる「だ・である調」と「です・ます調」があり、それについては文学研究の本で論じられているのも読んだことがあったのだが、これは哲学・倫理学の研究者によって書かれている。サブタイトルが秀逸だ。ところで、私はふだん友人などと話すときには一人称を「俺」にしているが、なぜ論文で「俺」を主語にしてはいけないのだろう、と考えたことがあった。そう考えていたときに、たまたまある哲学関係の本を本屋で立ち読みしていたら、「俺」を一人称にして書かれていてびっくりしたのだが、ふつうに読みにくかった。

  • P・グッデン(田口孝夫監訳)『物語 英語の歴史』(悠書館、2012)

勤務先で英語史の授業を担当しているので、その関係で読んだことのなかったこちらの本を借りてみた。400頁以上あって分厚いし、教科書にはしづらい種類の本だが、物語形式で書かれているので読みやすそうだと思う。図版が豊富なのも嬉しい。

英語文学の名翻訳家が絵本作家とタッグを組んでつくられた、まさに絵本のような(というか絵本なのだが)対訳詩集。有名どころだけでなく、現代の詩人の作品も収録されている。詩ごとにイラストのタッチも違っていて面白い。あとがきには「もし、幸いにも、この本がある程度の支持を得られたら、第二弾、第三弾もぜひやりたいと思っています」とあるので、実現してほしい。とりあえず、草の根運動として、詩のゼミの学生にはすすめます。

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特に詩の入門的な授業をするときには、詩と遊び(game / playfulness)というアイディアで考えることが多く、今後はそういう話をする機会も増えそうなので、だったらカミングスの詩はもう少し読まないといけないし、ことさらこういうタイトルの本は読まないわけにはいかない。これも対訳形式になっていて、本文の組版などの造本的側面も素敵なのだが、それ以外にもいろいろな工夫が凝らされている。それぞれの詩の後には「引っかかってみよう」というセクションがあって、素朴な問いが並べられているから、これは他の人と一緒に考えるのにも向いているだろう。詩人が言葉で遊び、あるいは、言葉が詩人を遊ばせ、そしてその詩を今度は読者が遊び、という素晴らしい循環が成立している。

雑誌『群像』での連載をもとにした、一般的には文芸批評というジャンルに入れられるのであろう一冊。だが、著者はいわゆる「批評」、すなわち作品の解釈や価値判断をしているつもりはあまりない、という。

喩えるなら、ある土地を訪れて、そこがどんな場所なのかを観察するようなものだ。既存の学問でいうなら、人類学がこれに近いだろうか。……外からやってきたアウトサイダーの目と、当該社会のなかで暮らすインサイダーの目を重ね持ち、そのつもりで観察する人類学者にしか見てとれないものがある。ちょうどそれと同じように、文芸作品に記された世界を訪れて観察してみようというわけである。書名に見える「エコロジー」とは、そのキーワードだ。文字で組み立てられた世界がどんな要素と関係からできているか、つまりはどのようなエコロジー(生態系)であるかに注目する。(p. 13)

とても興味のそそられる試みで、実際にいくつかの「観察」を読むと、非常に楽しい。分量のある本なのでまだ一部しか読んでいないが、詩における時間というテーマに関心を持っているので、芭蕉の「古池や……」の観察での時間についての説明などは特に楽しく読んだ。ちなみに、前掲書との関連では、「文学作品を読むことは、言語でつくられた作品内世界でかたとき精神を遊ばせることである。ここで遊びとは、「なんの役に立つか」という特定の目的を脇において、ある条件の下、自分の心身になにが生じるかを試してみる営み、というほどの意味だ」(p. 393)という表現にも頷いた。

  • 堀内正規編『震災後に読む文学』(早稲田大学出版部、2013)

表紙には「東日本大震災の巨大な災厄に直面して研究者たちは古今東西の文学の中に何を見出したか」とある。ポイントは「作家たち」ではなく「研究者たち」が主語になっていることであり、震災を中心的なテーマにした文学を読むことではなく、震災後の読者の視点から研究者たちが自らの専門としている領域の文学を読みなおすことに重点が置かれている。今週末の学会で東北に出かけるというのもあり、書架で目に入ったので借りることにした。オムニバス講義をもとにしたブックレットということなので、授業を受けるつもりで少しずつ読んでいきたい。